出エジプト記 12 旧約聖書

過越の夜と血の約束

夜は深く、エジプトの空には砂塵の匂いがたちこめていた。ゴシェンの地に並ぶ粘土煉瓦の家々では、ともし火が揺れ、不安と沈黙が重くのしかかっていた。モーセの言葉は、す...

出エジプト記 12 - 過越の夜と血の約束

夜は深く、エジプトの空には砂塵の匂いがたちこめていた。ゴシェンの地に並ぶ粘土煉瓦の家々では、ともし火が揺れ、不安と沈黙が重くのしかかっていた。モーセの言葉は、すでに幾度もこの共同体を揺さぶってきた。しかし今宵告げられたことは、それら全てを凌ぐものだった。

アビブの月、今宵である。

家の主人たちは、それぞれの家族を前に、声を詰まらせながら言葉を繰り返した。子羊を選べ、傷のない一歳の雄を。十四日まで守り、そして屠れ。その血を取って、家の入口の二本の柱と、かもいに塗れ。肉は火で焼き、苦菜を添えて、酵母を入れないパンと共に急いで食べよ。腰帯を締め、靴を履き、杖を手にせよ。これが主の過越である。

年若いエリアブは、父が屠った子羊の温かい血をひしゃくに受けながら、手が震えた。子羊の鳴き声は、つい先刻まで庭で草を食んでいたあの、柔らかい目をした生き物のものだ。彼は父親を見上げた。「なぜ…」

「問うな」父の声は荒く、しかし目には深い悲しみがたたえられていた。「エジプトの地の全ての初子に、主の審判が下される。我々の家々に塗られたこの血は、主がその災いを『過ぎ越される』しるしなのだ。主の言葉そのままにせよ」

エリアブはうなずき、ひしゃくの縁に触れる血の生温かさに心を縮ませながら、粗末な麻布の切れ端を浸した。彼は入口のわだちにひび割れた左の柱に、そして右の柱に、丹念に、震える指で血を塗った。最後にかもい。暗赤色のしずくが、乾いた粘土の壁を伝って、かすかな痕を残した。それは、目に見える約束であり、目に見えない恐怖に対する、ただひとつの防壁だった。

家の中では、母と姉が急いでいた。粉をこねる音、平たい石の上でパンを伸ばす音。酵母を入れる時間はない。苦い野菜、それはこの四百年の歳月そのものの味のようだった。子羊の肉は火の上でじりじりと音を立て、脂が滴り、独特な香気が家の中に充満する。それは祝祭の香りではなく、ある決意の香りだった。すべてが「急いで」いる。長い奴隷の眠りから、突如として覚醒するための身支度のように。

やがて家族は床に座り、無言で食事を口に運んだ。肉は確かにうまかったが、喉を通りにくかった。苦菜の渋みが舌を刺す。パンは固く、砕ける。誰も多くを語らなかった。幼い妹が、突然、「何か来るの?」と呟いた時、父はただ彼女の頭を撫で、「主が我らを守られる」とだけ答えた。その声の底にこもる緊張を、子供でさえ感じ取っていた。

真夜中が近づくにつれ、外の闇は鉛のように重くなった。いつもの夜とは明らかに違う。蛙の声もなく、風も止み、ただ巨大な沈黙がエジプト全土を覆っているようだった。エリアブは、入口の血の痕が見える位置に座り、じっとそれを眺めた。その赤が闇に吸い込まれそうで、ならなかった。

そして、時は来た。

彼の家から遠く離れた、石造の豪壮な家々が立ち並ぶ地域から、最初の悲鳴が聞こえたかと思うと、それが波のように、たちまち街全体を飲み込んだ。それは人間の声というよりも、天地を引き裂くような、底知れぬ絶望の叫びだった。幼子を失った母親の慟哭、父親の怒りの咆哮、そして慄え。それらが複雑に絡み合い、夜の闇を震わせた。パロの宮殿の方向からも、同じような混乱の響きが風に乗って聞こえてくる。

しかし、ゴシェンの家々には、異様な静寂が流れていた。破滅の叫びは聞こえる。それはすぐ隣で起こっている。それなのに、この煉瓦の家の中には、恐ろしいほどの平安が横たわっていた。災いは、「過ぎ越して」いった。入口の血のしるしが、滅びの使いと主の民とを分かつ、見えざる境目となったのだ。

エリアブは、父の顔を見た。老いた頬を一筋の涙が伝っていた。それは恐怖の涙ではなく、圧倒的な畏敬と、理解を超えた救いの重さに打たれた者の涙だった。

夜明け前、まだ闇が濃い頃、人々は動き始めた。エジプト中が泣き叫び、死に満ちている中で、イスラエルの集団は静かに家を出た。酵母の入っていない練り粉を担いで。金銀の飾りや衣類を、エジプト人から請い求めて得たまま、背負い込んで。彼らの顔には、茫然とした、夢を見ているような表情があった。長い悪夢が終わり、別の現実が始まろうとしている。その境目に立つ者の、あの虚ろぎだ。

東の空がわずかに白み始めた時、彼らはゴシェンの地を後にした。隊伍を組むでもなく、ただ家族ごと、氏族ごとに寄り集まり、砂塵を上げて歩き出した。後ろには、泣き叫ぶ国が残されている。前には、葦の海を隔てた、荒れ野と約束の地が待っている。

エリアブは振り返った。彼の家の入口は、もはや遠く霞んで見えなかった。しかし、あの血の痕だけは、瞼の裏に焼き付いている。それは、裁きの夜の記憶であると同時に、不可思議な贖いの確かさだった。父が朝、彼に囁いた言葉を思い出す。 「この夜のことを、そしてこの食事のことを、忘れるな。子々孫々に、語り継がねばならぬ。主が我らをエジプトの家、奴隷の家から、力強い御手をもって導き出されたことを。」

彼は、背中のわずかな荷物の重みを感じながら、歩みを進めた。足取りは軽くなかった。しかし、その一歩一歩が、四百年の歳月を断ち切る、最初の裂け目であった。過越の夜は去り、旅路の朝が、血のように赤く、そして希望のように淡く、東の空に広がり始めていた。

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