コリントの信徒への手紙一 10 新約聖書

荒野の戒め、書庫の一歩

渋谷の喧騒から少しだけ逃れた、小さな教会の書庫で、哲也は埃っぽい聖書注解書のページをめくっていた。午後の陽差しが窓から差し込み、舞い上がる塵をきらきらと照らす。...

コリントの信徒への手紙一 10 - 荒野の戒め、書庫の一歩

渋谷の喧騒から少しだけ逃れた、小さな教会の書庫で、哲也は埃っぽい聖書注解書のページをめくっていた。午後の陽差しが窓から差し込み、舞い上がる塵をきらきらと照らす。パウロの手紙、コリント人への第一の手紙十章。そこに記された「彼らのことの起こったのは、わたしたちに対する戒めのためである」という一節が、どうにも胸に引っかかっていた。

「戒め…か」

彼は独り呟くと、本を閉じ、窓の外のケヤキの木を見つめた。葉が風に揺れ、光と影が不規則に踊っている。哲也自身、最近なんだか空回りしていた。教会の奉仕で人間関係に疲れ、正直なところ、信仰自体が形骸化しているような気がしていた。昔、火のように燃えていたあの感覚は、いったいどこへ行ってしまったのか。

その時、書庫のドアがきしみ、顔を出したのは、教会で最年長の信徒、森村たかしだった。八十歳に手が届く齢だが、背筋はしゃんと伸び、目は澄んでいた。

「おや、哲也くん。難しい顔してるねえ」

「あ、森村さん…いえ、ちょっとパウロの言葉を考えてまして」

森村はゆっくりと反対側の椅子に腰を下ろし、哲也が開いていた聖書の箇所に目をやった。

「コリント十章…『わたしたちの先祖はみな、雲の下におり…』ね。懐かしいよ。私も君ぐらいの歳の時、この箇所で随分考え込んだものだ」

彼は話し始めた。声は低く、どこか遠くを見るような調子で。

「パウロはここで、荒野をさまよったイスラエルの民の話を引き合いに出している。雲の柱、火の柱に導かれ、紅海を渡り、天からのマナを食べ、岩から湧き出る水を飲んだ。すごい体験だよ。それなのにね、神は彼らの大半を悦ばれなかった。なぜだかわかるか?」

哲村は黙って首を振った。森村はゆっくりとコップの水に口をつけ、そして、まるでその光景を目撃していたかのように語り始めた。

「民は、目の前の奇跡に慣れてしまったんだ。マナだって、最初は『これはいったい何だろう』と驚いたのに、すぐに『あの肉の鍋のことを思い出す』とつぶやき始めた。エジプトでの奴隷生活でさえ、今の不平不満の中では懐かしく美化されてしまう。人間の心って、そんなふうに歪むものなんだよ」

物語は、森村の口から、生き生きと流れ出た。昼下がりの書庫は、いつの間にか暑い砂漠の荒野へと変貌していく。雲の柱の陰で日除けをしながらも、その導きを当たり前と思い、不平を口にする民衆の姿。モーセの苦悩。そして、偶像礼拝――金の子牛を作り、『これが我々をエジプトから連れ出した神だ』と言って踊り狂う愚かさ。森村の描写は細やかで、神学的な解説というより、そこにいた一人の老人の思い出話のように響いた。

「パウロは、これを『型』だと言った。現代を生きる私たち、特にコリントの、いや、東京の教会にいる私たちへの、生きた警告だ。哲也くん」

森村の目が真っ直ぐ哲也を見た。

「私たちは、あの民と根本的には何も変わらない。恵みに慣れ、導きを忘れ、もっと分かりやすい『偶像』、それは仕事の成功かもしれないし、人間関係の平和かもしれないし、あるいはただの自己満足の奉仕かもしれないが、それを造り上げて拝んでいる。パウロが『これらの事が彼らに起こったのは、戒めとしてであり…』と書いた時、彼はコリントの信徒たちの、偶像の神殿での宴会や、性的な不品行や、つぶやきを見ていた。そして、今ここにいる私たちの内面も、見透かしているんだ」

哲也は自分の手のひらを見つめた。そこに、目に見えない「偶像」の繭が、いつの間にか張り巡らされていないか。奉仕は、神のためではなく、自分が「良い信徒」と認められるための行いになっていなかったか。その疑念が、胸をざらつかせた。

「でも…どうすれば?」

その問いかけは、弱々しく書庫に響いた。森村の顔に、深いしわが寄った。それは微笑みに近かった。

「パウロは言っている。『自分を誘惑に会わせないように…』と。逃げ道を用意しておけ、と。それは、何か特別な秘儀じゃない。ただ、『この座に着いてはならない』と言われたら、たとえ誰も見ていなくても、そこに座らない勇気。『これは偶像に供えた肉だ』とわかったら、たとえそれが美味しそうなステーキでも、口にしない選択。信仰とは、結局、そういう日常の、地味で小さな『選び取ること』と『退くこと』の積み重ねなんだよ。荒野の民は、その選択を、毎日誤り続けた。私たちは、今日という一日、誤らないように、神にすがりながら一歩を踏み出せばいい」

夕暮れが近づき、書庫の色がオレンジ色に染まり始めた。ケヤキの影が長く伸びている。哲也は、自分が求めていた答えが、壮大なビジョンや感動的な体験ではなく、このような地に足のついた、しかし厳しい現実の中にあることを、ぼんやりと感じ取っていた。パウロの言葉は、二千年前の砂埃っぽい出来事ではなく、今、この書庫の空気の中で、自分自身に「戒め」として語りかけている。

「試練は、人間に耐えられないものは来ない…」

森村が最後にそう呟き、ゆっくりと立ち上がった。背骨の節が、ぽきぽきと小さな音を立てる。

「帰ろうか。もうすぐ夕拝が始まる」

哲也も立ち上がり、注解書を本棚に戻した。指先に、ほんの少し、荒野の砂の感触が残っているような気がした。それは、遠い昔の民の失敗の跡であり、同時に、今日、自分が立つべき道の、ざらりとした現実だった。彼は深く息を吸い、書庫を出る森村の後ろに、一歩を踏み出した。その一歩が、どんなに小さいものであっても、それはもう、金の子牛の周りを踊る輪の中へではなく、渇いた荒野の中を行く、真っ直ぐで細い道へと向かう一歩なのだと、胸の奥で知った。

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